昭和46年01月04日 夜の御理解



 あの本当に久保山一家の人達にみれば、尊い例えばお父さん又は、ご主人の意思をほんとに尊いものにすると言う事を、私はそこんところに焦点を置かなければ駄目だと思うね。ただあの霊祭日にまたは、お立ち日に又は、月々のご命日に、好きなもののお供えをする、出来る位な事が、御霊様もお喜びと思うたら、私まだ思い方が足りないと思うね、ほんとにそれを尊いものにすると言う事はね。
 私はもう色々考えなければならいところがある、まあそんなこまごまのことを、神様にもお願しお届けさせてもろうて、お願いさしてもらいよりましたらね、丁度バイブルあの聖書の、聖書ですね、バイブルよりもこの位大きい、皮の表紙のこのこれくらい厚いですね、ご本を頂いてから、そのちょうど八分目くらいのところへですね、あのこうなんちゅうですか、こう挿むのあのしおり、しおりを挿んでおるところを頂いた。
 そいでははぁ先生が残された信心は、ここまではご自分が、いわばある意味で達成されたご信心であった。あとの残されておるこの二分のところをね、あの後に残ったものの信心の、課題にしていかなければならんというふうに、私は感じたんです。そいであと残されたこの二分と言う所が、あのどこであろうかと思わせて頂いたら、あの大きな釣鐘をね、救おうとするとこを頂くんですよ。
 だから私まぁすぐに直感したんですけれど、はか先生ここじゃったよそこというて、御霊様に申し上げたんですけどね、それこそ鐘が鳴るのか、撞木が鳴るのか鐘と撞木の相がなる、鐘でもなければ、撞木でもない、その中から生まれてくるものね、ここのところのね、いわゆる会得というか、体得が出来ていなかったと言う事なんですよね、ほんとに鐘が鳴るのでもなからなければ、撞木でもない、鐘と撞木との間なんだ、又信心の妙きょうというのはここなんだと思うんですよね。
 今先ほど、竹内先生といろいろお話しさせて頂いたことなんですけども、ほんとにあの好きな物と嫌いな物、誰でもあるんだけれど、いうならば好きなもんのときはニコニコするけれど、嫌いなもののときは嫌な顔をする、いうのじゃなくって、その好きなもの例えば、これ人間関係で言うなら、あの人は嫌な人だな、という一人がやっぱ嫌だと思うたら、誰でも彼でも嫌と思われていますね、きっとあの人は好かんやつちゃなぁと思いよる、誰からでん好かれんものをなにか持っているわけなんです。
 ですから私その様な人達の場合にですね、ほんとにあの人も神様の氏子、とこう思うんですよね、そいで気の毒だなぁと思うたら、あのやはり私もそんな人は好かんけれど、そう思うたらです、心をその人の心にいうならば、優しい心を持って向きえれる気持ちがいたします。ほんとに神心のことです、ですからそこからね、嫌い人なら嫌いな人と、私の中からです、その人でなからなければこの人でもない、そん中から良い音色が生まれてくるね、これは難儀というても良い。
 誰でも難儀を好んだりしませんけど、そこに難儀があるならば、その難儀の中から、喜びを頂きたいと言う様な修行が出来てくる、いくならそれは難儀から、発散する喜びでなければ、私だけから、発散する喜びでもない。そこにね信心という道がある。いわゆるその難儀と私の中から良い音色が出てくる。そこんところをね、私は久保山の方達は、そこんところを、もうやはり目指していかなければ、そこんところがお父さんが、あとまあ言い残しておられるし。
 まあいうなら研究しておられたとするなら、そこまでしか研究がでけておられなかった、あとの二分のところをね、後に残されたものの課題、、そこに取り組ませて頂くと言う事がね、お父さんおかげで、と言う事になるんじゃないでしょうかね。ほんとに必ずこれが全部、一生かけて出来るか出来ないか分らん、けどもそこに取り組ませていただいて、お父さんが残されたそこの信心を、私共は極めていこうとしておるんだと、いうそういう姿勢が、神様に喜んで頂けれるだろう、御霊様はなおさらのこと。
 そこんところが、お喜び頂ける事だろうと、もちん大事なことに。だからそれが出来るから、残されたそのものをですね、私共何かの形でですね、そこにあのそういう修行をさして頂いて、ほんとにお父さんおかげで、とそこんところの、いわゆる鐘がなるのか撞木が鳴るか、鐘と撞木の相がなる、その音色を聞かせて頂く信心こそね、お父さんが懸けられておる、皆さんにかけられておられる信心、それが願いだとそういうふうに、感じたんですけどね。
 ほんとにね、皆さんにね見せたい、こんなに大きな、あんなバイブルってない、おそらく金光教のバイブルだと思います、自分が長年かかってきて、あの御理解の収録してこられた、あれが、親先生から必ず、合楽のいわば、聖典になりますよ、いや金光教の聖典に必ずなるとそれを信じていかれたんですからね。そう言う様な信心の内容をですね、なら、それでも全うしていかれたわけではない、いわば読み残しておる、そこんところに、これは久保山豊のものじゃない私。
 いや合楽の全体のものが、そう言う様なところへ信心を、ま久保山先生の信心を、ほんとの意味において、生かしていく事のためにはそういう、精進さしてもらうことが、合楽のことを本気で一生懸命思うた、思うて亡くなられた御霊様たちへの、私は何よりもの、手向け、何よりもの、喜んで頂けれることだろうと思いますね。どうぞその辺のところをしっかり、あのおかげ頂いて欲しいですね。
   どうぞ。